こんばんは。くまごろうです。
今回はカルロ・ロヴェッリ氏の「時間は存在しない」です。
印象に残った文章
ここからは、本書を読んでみて印象に残った文章と、その文章に対しての感想なんかを書いています。
なお、本書を読むまで秘密のままにしたいという方は、ここで一旦引き返していただければと思います。
簡単な事実から始めよう。時間の流れは、山では速く、低地では遅い。
<中略>
遅くなるのは時計だけではない。低いところではあらゆる事柄の進展がゆっくりになる。二人の友が袂を分かち、一人は平原で、もう一人は山の上で暮らし始めたとしよう。数年後に二人が再会すると、平原で暮らしていた人は生きてきた時間が短く、年の取り方が少なくなっている。鳩時計の振り子が振れた回数は少なく、さまざまなことをする時間も短く、植物はあまり成長しておらず、思考を展開する時間も短い。低地では、高地より時間がゆっくり流れているのだ
いきなり、ガツンと来ました。
お金持ちやお金持ちでない人、男性や女性、時間とは唯一平等で与えられたものと認識していましたが、その認識をいきなりひっくり返されました。この後に詳細についての記載がありますが、哲学的であったり、概念的なものではなく、あくまで物理的にというのがポイントです。
クラウジウスは、そこから事の本質をつかみ取り、ある法則を発表した。後に有名になったその法則によると、周囲に変化するものがまったくないのであれば、熱は、冷たいものから温かいものに移れない。 ここで重要なのが、落体との違いだ。ボールは落ちることができるだけでなく──たとえば跳ね返ることによって──勝手に戻ってくることができる。ところが熱は、そうはいかない。 クラウジウスが発表したこの法則は、過去と未来を区別することができる、ただ一つの基本的物理法則なのだ。
<中略>
したがって時間と熱には深いつながりがあり、過去と未来の違いが現れる場合は決まって熱が関係してくる。
過去とは確かなものであり未来とは不確かなものである、というのが私たち世間一般の考えだと思います。そして、過去は変えることはできないものであり未来は変えることができる、という一方向的なものであるというのは、無意識のうちに私たちに浸透していることであろうと思います。
しかし、「熱」と「時間」に類似性があるなどとは誰が考えつくでしょうか。この後、熱をエントロピーと表し、エントロピーを軸とした筆者の考察が続きます。
「今」、はるか遠くではいったい何が起きているのだろう。たとえば、みなさんの姉が太陽系外惑星プロキシマ・ケンタウリbにいるとしよう。これは最近見つかった惑星で、地球から約四光年離れた恒星のまわりを回っている。そこで質問です。お姉さんは今、プロキシマ・ケンタウリbで何をしていますか。
正解は、「その質問には意味がない」。
少し屁理屈のように思われる方もいらっしゃるかと思いますが、著者は真剣です。そして、続きます。
「現在」という概念と関係があるのは自分の近くのものであって、遠くにあるものではない。 わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。 では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて一〇分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。
「今」や「現在」という言葉は日常的に使いますし、語学なんかを学ぶ際にも初めの方に学ぶことも多いのはないでしょうか。しかし、筆者は「今」や「現在」という考え方に対して疑問を持ち、宇宙やナノ秒といった私たち一般人にも分かりやすい表現で説明しています。
今かりに何も変わらなければ、何も動かなければ、時間は経過しないのか。
<中略>
アリストテレスは『自然学』という著書で、「暗闇では、わたしたちの身体は何も経験しない」と述べている。「しかし心のなかで何かが変化すれば、すぐに時間が経過したと感じる」。つまり、自分自身のなかを流れていると感じられる時間も、動き──自らの内面の動き──を計測したものなのだ。何かが動かなければ、時間は存在しない。なぜなら時間は動きの痕跡でしかないのだから。
これに対してニュートンは、まるで逆のことを考えた。 ニュートンの代表作である『プリンキピア』には、次のように記されている。 わたしは時間を……誰もがよく知っているような形では定義しない。しかしそれでも、この時間という量が一般に感じ取れる事物との関係でしか理解されていない、ということは指摘しておくべきだろう。そこからさまざまな先入観が生じるわけで、それらを取り除くには、絶対的な時間と相対的な時間、真の時間と見かけの時間、数学的な時間と日常的な時間を区別したほうが具合がよい。
想定的な時間の存在を主張するアリストテレスと、相対的な時間の存在に加え、絶対的な時間も存在すると主張するニュートンを対比し、時間の考え方について筆者の主張を述べています。自分自身、時間とは絶対的なものであると無意識のうちに感じていました。しかし、改めて考えてみると絶対的な時間とはいえ、例えば、1分、1秒といった時間でさえ、実際は人類が勝手に定義しただけであって、絶対的なものではないという事実を目の当たりにしてしまいます。
時計で計った時間は「量子化」されている。つまり、いくつかの値だけを取って、その他の値は取らない。まるで時間が連続的ではなく、粒状であるかのように。 粒状であるということは、量子力学のもっとも特徴的な結果であり、理論自体の名前もここからきている。「量子」とは基本的な粒のことであって、あらゆる現象に「最小の規模」が存在する。重力場における最小規模は「プランク・スケール」、最小の時間は「プランク時間」と呼ばれていて、相対性や重力や量子が絡む現象の特徴となっているさまざまな定数 を組み合わせれば、その値を簡単に計算できる。そしてその結果、一秒の一億分の一の一〇億分の一の一〇億分の一の一〇億分の一の一〇億分の一、つまり 10^-44秒という時間が得られる。
時間とは連続的であるものと当たり前のように感じていましたが、時間とはどうやら離散的なものであるとのことです。また、10^-44秒という限りなくゼロに近い数ですが、量子力学の世界では「プランク時間」という単位を用いて時間を表すことができるようです。そして続きます。
時間が「量子化される」ということは、時間 のほとんどの値が存在しないということだ。わたしたちが想像し得るもっとも正確な時計を用いてなんらかの時間の幅が計れたとすると、その測定値は特別ないくつかの値に限られていて、離散的であることが判明するはずだ。時間が連続的に継続するとは考えられず、不連続だと考えるしかない。一様に流れるのではなく、いわばカンガルーのようにぴょんぴょんと、一つの値から別の値に飛ぶものとして捉えるべきなのだ。 言葉を変えれば、時間には最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。もっとも基本的な意味での「時」すら存在しないのだ。
量子化された時間の最小単位である「プランク時間」に満たないところでは、時間の概念すら存在しないと筆者はいいます。
しかし、個人的には少し疑問に感じました。
というのも時間を「量子化」するというのは、いわば目に見える形に時間を定義したのであって、定義した枠外(ここでは最小単位の「プランク時間」よりも小さい値)であれば、当たり前ですが、定義していないのですから存在しないのは当たり前だと思うのです。
例えば、メートル、センチメートル、ミリメートルしか存在しない世界では、髪の毛の幅や空気中のウイルスは1ミリメートル未満で計測できない幅のため、存在しないのでしょうか?いいえ存在します。
また、例として「1ミリメートル」という表現を使いましたが、仮に量子の世界で「0.1プランク時間」という表現をした場合も同様に時間の概念は存在しないといえるのでしょうか?
と少しひねくれたものの見方をしてしまいましたが、量子の世界というのは実に興味深いものだと改めて感じられたのは大きな収穫です。
ちなみに、プランク時間の姉妹として「プランク長」というものも書籍内では紹介されているので、興味がある方はぜひご一読を。
科学の進化全体から見ると、この世界について考える際の最良の語法は、不変性を表す語法ではなく変化を表す語法、「~である」ではなく「~になる」という語法なのだ。
<中略>
物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。
わたしたちがこの世界を理解する際に用いる基本的な装置は、空間の特定の点に常に据えられているわけではない。かりにそのような計器があったとして、それらはある場所にある時点で存在している。つまり、空間的にも時間的にも限定された「出来事」なのだ。 実際さらに細かく見ていくと、いかにも「物」らしい対象でも、長く続く「出来事」でしかない。もっとも硬い石は、化学や物理学や鉱物学や地理学や心理学の知見によると、じつは量子場の複雑な振動であり、複数の力の一瞬の相互作用であり、崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、・・・<省略>・・・ある存在論のメタファーなのだ。そしてそれは、わたしたちが知覚している対象より、むしろ知覚しているこちら側の身体構造に依拠したこの世界の細分化の一部であり、現実を構成する宇宙規模の鏡のゲームの複雑な結び目なのである。この世界は石ではなく、束の間の音や海面を進む波でできている。
世界を捉えようとした際に「物」を使って挑戦しようとし、石とキスを例に表現しようとしています。途中までは石という「物」に軍配が上がっているように見受けられましたが、実は「石」というものは、砂が固まって石となり分解してまた砂に戻るまでの連続的な「出来事」のある一部を切り取ったものだというのです。極めて長い時間軸では、石も音や海面を進む波と同じということのようです。
わたしたちがこの世界で見るものの多くは、自分たちの視点が果たす役割を考えに入れてはじめて理解可能になる。視点の役割を考慮しないと理解ができない。何を経験するにしても、わたしたちはこの世界の内側、すなわち頭のなか、脳のなか、空間内のある場所、時間のなかのある瞬間に位置している。自分たちの時間経験を理解する際には、自分たちがこの世界の内側にいるという認識が欠かせない。早い話が、「外側から見た」世界のなかにある時間構造と、自分たちが観察しているこの世界の性質、自分たちがそのなかにいてその一部であることの影響を受けているこの世界の性質とを混同してはならないのだ。
地図を使うには、地図を外から見ているだけではだめで、自分たちがその地図が表しているものどこに位置しているのかを知る必要がある。空間を巡る自分たちの経験を理解するには、ニュートン的な空間を考えるだけでは十分でなく、自分たちがこの空間を内側から見ていること、自分たちが特定の領域に限定された存在であることを念頭に置く必要がある。そして時間を理解するためには、外から考えているだけでは不十分で、自分たち、そして自分たちが経験するすべての瞬間が時間のなかにある、ということを理解する必要がある。
後段の地図を使う具体例を理解した上で、前段の内と外の話を読んでみると、時間やものごとの捉え方に対する考え方がガラリと変わってくるのではないでしょうか。
「外」とは「内」があってはじめて成立するもので、「外」の理解を進めるためには「内」の認識を充実させることが重要と自分は解釈しました。
同じ10分でも、試験中はあと10分「しか」ないと感じる一方、合格発表前の10分は、まだ10分「も」待たなければいけない、と感じるかと思います。「外」からみた10分という時間を10分「しか」と捉えるか、10分「も」と捉えるかは、その人の「内」の声次第なのでしょう。
アウグスティヌスは『告白』の第一一巻で、時間の性質を考察している。そして、わたしにいわせればきわめて退屈な、福音伝道師ばりの感嘆の声を差し挟みながら、時間を知覚して理解する自分たちの力をわかりやすく分析してみせる。その観察によると、わたしたちは常に現在にいる。なぜなら、過去は過ぎ去っているので存在せず、未来もまだやってきていないのでやはり存在しないからだ。そのうえでアウグスティヌスは、わたしたちは常に現在にしかおらず、しかも現在は定義からいって一瞬のものであるはずなのに、それでも自分たちが継続を意識し評価もできるのはなぜか、と問いかける。わたしたちは常に現在にいるのに、どうして過去について、時間について、かくも明確に知り得るのか。今ここには、過去も未来もない。ではどこにあるのか。それらはわたしたちのなかにある、というのがアウグスティヌスの結論だ。
アウグスティヌスの議論はじつにみごとなもので、わたしたちの音楽経験がその論拠となっている。賛美歌に耳を傾けるとき、一つの音の意味は、その前後の音によって与えられる。音楽は時間のなかにしかあり得ないのに、わたしたちが常に現在にしか存在し得ないとしたら、どうして音楽を聴くことができるのか。なぜなら、わたしたちの意識が記憶と予想にもとづいているからだ、とアウグスティヌスはいう。賛美歌や歌は、わたしたちが時間と呼ぶものによって何らかの方法で一つにまとめられ、わたしたちの心に届けられる。ゆえに、これが時間なのだ。時間は丸ごと現在にある。わたしたちの精神のなかに、記憶として、予想として存在するのである。
時間に対しての考え方の一つとして「外」と「内」の話がありましたが、本文はまた違った切り口での時間の考え方です。
本題からは少し外れますが、前段の「わたしたちは常に現在にしかおらず」という文章を読んだ際に自分の頭には微分という言葉が浮かびました。一般的に微分をすることで接線を求めることができますが、アウグスティヌスの現在の考え方は、微分というある1点の接線を求めるという考え方と類似しているのではと感じたからです。
自分のスキルでは以下の例えが限界ですが、少しでもニュアンスが伝わればなと思います。
- 自分という関数を微分する = 自分の現在を知覚する
- 求めた接線の傾き = 正の値であれば幸福、負の値であれば不幸
こうして考えてみると、自分という関数を定義できるのはそもそも自分自身なので、自分という関数をどう定義するかによって幸福や不幸をコントロールすることができるというのは、中々面白い考え方ではないでしょうか。
そして、後段の時間を讃美歌や歌といった音楽で表現するという試みについても同様に、讃美歌や歌といった共通の関数であるといった考え方もできるのではないでしょうか。
なお、共通という表現を使いましたが、関数自体が多くの変数の集合体であると考えれば、それらの変数に対して意味付けをするのは音楽を聴くその人自身であるとも解釈できます。
おわりに
自分の知識やスキルが不足していることもあって、著者のカルロ・ロヴェッリ氏の伝えたかったこと全てを汲み取ることはできなかったと思いますが、それでも本書からは非常に多くのことを学ぶことができました。
文章としてはとても印象に残ったものの、読者の方にうまく伝える術がなかったために泣く泣く落とした文章も多くありました。本書は、時間を経て知識や経験が増した上で、また読み直したいと思える良書でしたので、少しでも興味を持たれた方は一度お手に取ってみてはいかがでしょうか。
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